たゆたうような気怠いまどろみの中で真城は瞼を上げた。
仰向けに眠るミツルの、真城のものよりも少し広い胸が、薄闇に沈む視界に浮かび上がる。真城はぼんやりとそこに頬を預けた。涙に濡れた頬に、汗の乾ききらない皮膚の感触が伝わった。
あたたかい。
いつものようにふたり睦み合った末、真城は意識を落としてしまったようだった。後始末もそこそこにシャワーで身を流しもしていない。真冬の北海道の夜、暖房を強めに効かせてベッドに横たわり、一糸まとわぬ姿で身を寄せ合っている。身を縮めた姿勢は真城が眠る時の癖だった。そうしているとミツルの抱擁を全身で感じられる。だから今もより多く、より広い面積をミツルと触れ合えて、ミツルの体温と鼓動が伝わる中をまどろんでいられる。
それが嬉しくて真城はミツルの胸に頬をすり寄せた。
真城はこの時間が好きだった。
ただミツルと共に在る今を噛み締めるだけの、穏やかな時間が好きだった。際限なくこみ上げる浅ましい衝動に気を急かされることもない。熱も欲も果てに置き去りにしてしまった後、ただ流れゆく時に身を浸すだけの、この上なく贅沢な時間が好きだった。
その気持ちは真城自身が自覚しているよりもずっと強い。特に頭があまり回らなくなっているのが真城にとっては何よりも良かった。無意識にそれを求めてミツルにもっとをねだっている節すらある。気を失うほどの疲労から目覚めたばかりでは、さすがに余計な思考を巡らせることはできない。だからこの瞬間だけは、ただ本能が求めるままに大好きなぬくもりに溺れていられる。
そうしているのが何よりもしあわせだった。
ミツル。夜高ミツル。
「……ミツ」
真城の一番好きな人。
ミツルに求められる日が来るなど、考えもしなかった。考えることすら自分に許してはならないと思っていた。真城はミツルの全てを奪った。その順風満帆だったはずの人生を挫かせた。普通に生きていけたはずのミツルに不要な苦労と冷たい孤独を強いてしまった。それだけで真城はミツルと関わる資格などなかったはずなのだ。
その上さらに過ちを重ねた。世界に対しても、ミツルに対しても。無駄な犠牲を積み上げて、ミツルを狩人に仕立て上げてしまった。償うすべのない罪を無為に重ねた末に、ミツルをさらに取り返しのつかないところまで追い込んでしまった。真城の手を掴ませてしまった。
一緒にいられるはずがない。
そう考える回路さえ、このまどろみとぬくもりの中ではうまく働かなくなる。ただ純粋な好意と幸福だけが今の真城に残される。それを噛み締めていられる。
──好きだ。ミツルが一番好きだ。
一番好きな人と一緒にいて、しあわせだ。
こうして寄り添っていると嬉しい。触れていられると嬉しい。温かいのが好きだ。ミツルが生きていることを感じていられる現在が、真城を選んで、真城と一緒にいることを決めてくれた現在が比べようもないほどに尊ばしく感じられる。
一番に好きな相手が何もかもを許してすべてを受け入れてくれているのが、真城にとってはまさしく夢のようだった。誰に求められるのも恐ろしかったのが、ミツルに対しては違う。真城が恐れるのは真城がミツルの欲を歪めてしまうかもしれないことだけだった。そうではないことをミツルは根気強く証明してくれたから、今はもう安心してその求めを受け入れることができている。欲しいとすら思えた。ミツルに満たされて、ミツルだけを感じて、ミツルだけのものになっていたいと。
ミツルになら本当は何を望まれても構わなかった。すべてがミツルの望むようになればいい。そのように在りたい。心の底からそう思っていた。自分のことが嫌いで仕方ないのを、ミツルが望むのならば治したいとすら思う。それは真城にとっては何よりも難しいことで、どうしてもうまく行かないで結局ミツルを困らせてしまっているが。
ひどく短絡的なことを言うならば、この身体の性質すら──ミツルを喜ばすことができるのなら、真城には好ましく感じられた。もちろんミツルが真城の体質を手放しに歓迎しているはずがないことは承知している。このような面倒しか起こさない体質、治せるものなら治したいに決まっている。真城自身もそう思っている。
しかし同時に、それがひと時でもミツルを喜ばせる瞬間があるのなら、悪くないとも思えてしまうのだった。
真城がミツルにしてやれることはあまりにも少ない。真城のために全てを擲ったミツルに反して、真城の手には何もなかった。真城がミツルに捧げられるのは本来捨てたはずのこれからの生くらいのものだ。ぼろ切れを再利用するのに似ている。なんの価値もないものを、どうにか形だけの対価として繕ってみせているに過ぎない。ミツルはどうしてかそれを至上の宝物のように扱ってみせるけれど。
だからそれが性技であってもミツルを快くさせられるのなら真城にとっては喜ばしかった。今まで散々に辱められて嘲笑われてきたものでも、身勝手な欲望を叩きつけられてきた結果身につけた恥ずべき特技でも、ミツルに尽くすことができるのなら嬉しかった。ミツルを受け入れることができて、求められて、心を通わせる一助になるのならこれも悪くないと思えた。
ミツルに触れられる喜びを身体の芯まで感じられるのが幸せだった。
眠りの中に投げ出された手を取る。ミツルの手。それほど大きくはない、けれど成熟した男性のかたちをした手。料理の時には驚くほど器用に動く。軽く握り込んで指を沿わせれば、刀を握るようにもなってしまった結果の硬い皮膚の感触が伝わる。
それが今は、一番に真城に触れるものだった。つい先ほどまでもこの手は真城を触れていた。真城の肌を這い、肉をほぐして割り開いて、濡らした奥を辿った指先。体温を上げた真城の身体よりもなお熱かったミツルの手。
「ミツ」
意味もなくまたミツルを呼ぶ。
同時に好きだ、と繰り返し囁かれたことを思い出して身体に火が灯ったような気がした。
愛撫とともに注がれる声が熱と愛情に満ちた優しいものであったことを思い出して、再びに肌が温度をあげるようだった。耳に触れた唇の柔らかさと真城を求めて潜められた声が頭の奥にリフレインする。真城はそれになんと返しただろうか。あの声に、あの熱情に、応えられるだけのものが果たして真城の中にあっただろうか。自信がない。
自信がないくせ、求める心には際限がない。くびきが十分に働いていない今は尚更だった。
もっと欲しくなる。
愛されるのが嬉しい。求めてもらえるのが幸せで仕方ない。もっとそうされたくて、もっとそうしたくなる。
好きで好きでたまらない相手と、もっと深く繋がっていたくなる。
戒めから逃れてしまった欲が真城の中で頭をもたげる。衝動に導かれるまま、真城はミツルの指先を唇に含んでいた。今度はその人差し指と中指を舌で味わう。真城の全身を丹念に触れ回った指の二本を、その節のかたちを、硬い皮膚の表面に残る体液のかすかな塩気を、短く切りそろえられた爪と肉の隙間を。ひとりでに溢れた唾液でたっぷり潤った舌で、ミツルの指を包み込む。
さすがに熱に浮かされ始めた真城の口腔内の方が、ミツルの皮膚よりも体温が高い。ぬるいミツルの指を温めるようにより深く呑み込むとその指先が上顎を掠めて、真城の喉奥がくぐもった音を立てた。肩が震える。ぞくぞくとした甘い痺れが背を駆けて脳にまで回って、思考がますますぼやけていく。無意識に内腿をすり寄せながら視線を上げ、ミツルの顔を窺い見る。
天井を仰いで寝息を立てる穏やかな横顔。何も知らずに眠っている大好きな相手を視界に収めて、背徳感と衝動のままに真城は自らの肌に手を這わせていた。
「ん──っく、ぅう」
裸身ゆえに服を分ける必要さえない。貧弱な胸を、薄い腹を触れ降りて下腹部に差しかかると、熱と硬さを帯びた自分自身を指が掠める。それをシーツに押しつけるだけでぞわりと全身が粟立った。しかし今欲しいのはそちらではない。
だらしなく唇の端から唾液を垂らしてミツルの指に吸いつきながら、涙に滲む視界を閉ざす。その感触で、指先のかたちで頭を埋め尽くして、朦朧とした意識に意図的な錯覚を呼び起こしながら背中の側に腕を回し、自らの奥を探る。滑りと潤いの残っていたそこを自分で掻き分けながら、愛された残滓をなぞるように。
静かな寝室。エアコンの駆動音とミツルの寝息程度しか聞こえなかったはずの室内に、くちくちと厭らしい水音が響いていた。或いはそれは真城の頭の中にのみ過剰に響く音だったかもしれない。それがミツルの舌を味わって立つ音なのか、自分の肉を慰める浅ましい行為の結果なのか、真城にはもはや判別がつかない。両方かもしれない。いっそどちらでも構わない。
ただ愛されていたその瞬間を追い求めて指を動かしていた。
「ひ、……ひぅ、ひ、──ひ、ふ」
不明瞭な発音で、みっともなく名前を呼びながら自涜に耽る。はしたない有り様を客観視することもできず、厭うていた筈の熱と欲に独りで溺れる。ミツルと関係を持つまで、守られる日々を日常として迎えるまで決して自覚することのなかった真城自身の性欲の強さに流されてしまう。欲から解放された穏やかな時間を心の底から愛しながら、結局奥底から溢れる衝動に身を任せてしまう。
足りない。こんな指では足りない。錯覚が足りない。自分の指では満足ができない。どんなに強く触れても、どこを埋めたところで、こんなものでは決して満たされない。
ミツルが欲しい。
ただ一つの願いに頭を埋め尽くして夢現に、そのくせ指は快楽を追い求めて肉の裡を掻き毟っていた。触れられた場所、好きな場所、いっぱいいっぱい、愛してもらった場所。ミツルに。
ミツルが。
真城が夢中になって吸いついていた指先が、不意にぴくりと動いた。
それだけで。
「ふ──ぅ、うぅ!?」
爪の硬さが真城の上顎の奥を軽く掠めた、それだけで目の前に星が散った。
見開いた瞳の焦点が合わぬままに涙を溢れさせ、全身がびくびくと痙攣して腰が跳ねた。口に含んだ指に歯を立てないことだけどうにか頑なに守ろうとすればするほど、それ以外のすべてが疎かになる。肌を巡る官能の鮮烈さに耐えられない。欲しがったものを与えられたような気になって歓びに震える肉が、勝手に絶頂を繰り返すのを抑えることもできない。
その醜態がどれほどに続いたかも、灼き切れた思考では認識できるはずもなかった。最後に一際大きな絶頂に身を震わしてから、真城の全身から力がくたりと抜ける。口の中いっぱいに含んでいたミツルの指も吐き出し、蕩けた視界にそれが自分の唾液でべとべとに汚されてしまっているのをぼんやりと見つめ──。
「……っあ」
そしてその向こう側、真城を見つめるミツルの丸い瞳。
それがいつから開かれていたかも、当然真城の知る範疇の外にあることだった。