手の中の熱を握りしめる。
ミツルはすっかり寝入ってしまったようだった。少し前までは手を握り返されたり、うわ言のように真城を呼んだりしていたが、今はそれもなくなって穏やかな呼吸を繰り返している。
先ほど眠っていた時よりは、苦しくなさそうだった。そのことにわずかばかり安堵を覚えた矢先、視界が滲んだ。熱を持つ目頭に慌てて俯く。
手遅れだった。涙が頬を転がり落ちて、ルームウェアのボトムに小さなしみを作る。
握りしめたミツルの手は、いつもより熱い。
真城はミツルの熱が好きだ。寄り添って触れて触れられて、身体を重ねて、そのたびに伝わる熱の高さに安堵する。もともと感じられる機会の多かった温度感覚だけは一際早く取り戻せたから、それこそがミツルと過ごすようになった今の生活の象徴のように思えていた。
しかし、その熱が今はミツルを苛んでいる。そのことがひどく恐ろしい。
大好きなものが大好きなものを苦しめていることを、どう受け止めればいいかわからなかった。
「……ミツ」
ミツルの眠りを妨げぬよう、小さな声で名前を呼んだ。
馬鹿なことをしてしまった。今さらの後悔がまたこみあげる。
昨晩の雪遊び。急に思い立って外に出たものだから、防寒がまるで足りていなかった。ここは北海道で、札幌で、故郷の冬の夜とは違うのだ。雪に触れることそのものを目的とする以上、狩りの夜以上の重装備が必要になるはずだった。気を使ってはいたつもりだったが、もっとミツルの様子に気を配るべきだった。
ミツルはいつも真城のことばかり気にするから、真城はそのぶんミツルのことを気にしなければならないのだ。
真城が大丈夫ならいい。そのように済ませてしまうミツルのぶんまで、ミツルの身体が本当はどう感じているのか、無理をしていないか、真城は注意深くミツルの様子を窺わなければならない。
真城がそれを怠ったために、ミツルは今、熱に魘されている。真城の怠慢のつけをミツルが払わされているのだ。
ひどく、心苦しかった。
苦しむミツルのさまに反して真城の身体は至って平常だった。昨晩も、外は寒いだとか雪や風が冷たいだとか、その程度に感じることはあったが、真城にとっては懐かしくて新鮮な感覚だったから大して気にならなかった。見栄を張って普通だとか言ってみたりもしたが、それだってその寒さを普通のものとして受け止められることが嬉しかったからで。
真城は風邪をひかない。熱を出すようなこともない。身体がそのように作り変わってしまっているのだろう。幼い頃はそれこそ普通に具合を悪くすることもたびたびあったが、ここ数年はどんなに身体を酷使してもそのような体調不良に襲われた試しはない。時折訪れる気怠さや身体の重さは、人間の血を啜ることで概ねの解決が叶った。
普通ではない。
真城の身体は普通の人間のそれとは大きくかけ離れている。こうして熱に魘されるミツルの様子に、その事実を深く突き付けられる。
普通ではない真城に合わせて、ミツルはどうしても無理をしてしまう。普通ではない真城のために、ミツルの人生を消費させている。普通に生きられるはずのミツルの生き方を、普通ではない真城が歪めている。
真城が普通だったら。寒いから今日は諦めようだとか、早く帰ろうだとか言い出せて、ミツルに無理をさせずに済んだだろう。ミツルが身体を冷やしてしまうことも、風邪をひくこともなかったはずだ。そもそもミツルに気を遣わせすぎてしまうこともない。もっと普通の仲で、もっと普通の二人で、ミツルは狩人になんかならずに済んで。
こんな逃亡生活に身を投じることだってなかったはずで。
そう。ミツルと真城の今のこれは逃亡生活だった。ミツルがD7を襲撃し、真城を奪って逃げた。今のところは追手との遭遇を免れているし、実際D7がどれほど真城に執心しているかどうかは定かではないが、どちらにせよミツルは真城のせいで後ろ暗さを抱える身の上になったことは間違いない。ミツルは高校も退学してしまった。ミツルの親戚だってミツルの身を案じて捜索願を出しているかもしれない。心配してくれる相手がいるのだ。ミツルには。真城とは違って。
真城がミツルに全てを擲たせてしまった。そのことは紛れもない事実だった。
一時の借宿とはいえ定住地を得て、ずっと一緒にいて。いつものベッドで寝て起きて、使い慣れてきたキッチンで朝食を作って一緒に食べて、洗濯や掃除、布団を整えたり、これが足りないあれが減ってきただの買い物の相談をしたり、意味もなくぼんやり過ごしたり、触れたり触れられたり、身体を重ねたり。そういう普通の生活を送ることができて、これが普通だと勘違いしてしまいそうになるけれど。
真城は普通じゃないし、普通には生きられない。
それに付き合わされている普通のミツルの中には、きっとどこかで軋みが生じている。この発熱もその一端に過ぎないのだろう。だから。
「…………」
今なら。
今なら、ミツルはきっと、真城を追うことができない。
ミツルは深く眠っている。真城が手を離しても目覚めることはないだろう。手を離して、遠ざかって、扉を開けてこの家を出て、遠くまで。どこまでも。どこまでも行くことが、真城にはできる。ミツルから離れることが、きっと今なら、できるはずだ。
ミツルを解放してやることができるはずだ。
こんな自分との生活を打ち切って、まともな人生へとミツルを帰してやることができる。
数え切れないほどの人の命を奪ってきたこの手を繋がせたまま生きるのではなくて、もっと平和で穏やかな、危険とは無縁の生活をこそミツルは送るべきで、こんな仮初の安穏じゃなくて、もっと本当の、きっとたくさん彼を愛す人はいて、それを自分一人で独占してしまうことももうなくて。
それが一番いい。
それを真城は心の底から望んでいる。自分とは関係のないところで生きていくミツルが、それでも誰よりも幸せであってくれればいい。
そんな夢を見ることすら、この日々の中では忘れてしまっていたけれど。
ミツルの熱に反して真城の頭は冷えていくようだった。だからそれで思い出せた。それが自分の本当の望みであることを思い出せて、今ならそれを、もしかしたら実行に移せるのかもしれない。
実行しなければならない。
手放さなければならない。
手放してもらわなければならない。
ミツルが好きなら、ミツルが大切なら、本当にミツルのことを想うのなら、一分一秒でも早く、自分のような重荷を背負わせ続けるべきではないのだから、だから、だから。
だから。
手の中の熱を握りしめた。
硬くなった皮膚。爪はいつでも短く丸く切られている。今は高い体温、ずっと触れているから少し汗ばんでしっとりとした肌の感触、それを最後に堪能して、
「──っ」
指先を握り返されて、息を詰めた。
違う。
そんなに強い力じゃない、もしかしたら気のせいで、少し身動ぎした程度のものかもしれない。それだけ。掴まれたわけじゃない。手を、ミツルの手を握っているのは真城の方で、真城が、今こうして手を繋いでいるのは自分の方からに他ならないのだから。
縋っているのは自分なのだから、手を、
「ミツ」
わかっている。
離せるはずがなかった。
こんな問答いくら繰り返したか知れない。ミツルが体調を崩していようがいまいが関係ない。夜ごと我に返るごとに何度も何十度も真城はこれを繰り返して、その度いつだって最後に再確認する。
手放すことができないのは自分の方なのだと絶望とともに理解している。
離れなければならない理由も離れるべき理由もいくらでも積み上がって、早ければ早いほどいいのだと心の底から思うのに、いつまでたっても実行に移せないでいる。
この熱が好きだから手を放すことができないでいる。
望まれることが、触れられることが、愛されることが嬉しいから、振り解くことができずにいる。
そのくせ受け入れるのが怖いからいつまでも言い訳を探そうとして結局見つけられなくて、一緒にいていい理由を探そうとして、それが見つからないから離れなければならないという結論に至るのにそうすることができなくて、だから今もこうして間違いを犯し続けている。
望みだけを叶えて、正しいことから逃れ続けている。
それが苦しくて苦しくてたまらない。
「ミツ、……っ」
眠っているのといいことに名前を呼んで、
眠っているからって助けを求められるほど厚かましくはいられなかった。
真城はミツルと一緒にいてはいけない。
わかっている。わかっていて、それでもこうしていることを、許してほしい。許さなくていい。許さなくていいから忘れさせてほしい。触れられたい。愛されたい。抱きしめて熱を分け与えて、何も考えられなくなるくらいに愛を注いでくれればそれでいい。それがいい。
それが欲しくて欲しくてたまらない。
それを、せめて望んでしまうことだけ、どうか見逃してほしい。
この堂々巡りを真城は今までずっと繰り返してきた。これからもそうするだろう。飽きることはない。飽きてしまえるのならいっそその方がいい。でもきっとそんな日は来ない。いつまでもいつまでも、離れなければならないと悟っては離れられないことを思い知って、そのくせ離れなければならない理由ばかりを見つめ続けてしまう。何度も何十度も何百度も。
手の中の熱が今はぬるい。強く握りしめて触れ合った肌が、同じ温度に近づいて重なっている。
だからそれより激しいものがいい。馬鹿になってしまうくらい高い熱が、ミツルではなく自分だけを苛めばいい。
そうしてこの欲深も罪も何もかもを灼き切れてしまえば、ミツルと一緒にいることが許される日がいつか訪れるだろうか。
そうなることを望んでいる以上は結局、真城は何もかもから逃れることはできないでいるのだけれど。