「ミツってのはひどい男なんだろうな」
 薄暗い寝室。ベージュのカーテンが引かれていて、枕元に灰皿が置かれている。そのベッドの上。
 既に見慣れつつある天井から男の顔へと視線を移し、真城は困惑に目を瞬かせた。
「──え?」
「そうじゃないか。君みたいな子を追い出して、こんな風に泣かせてる」
「ち、がう」
 首を振る。真城を組み敷いて見下ろす男が怪訝そうな顔をする。
 真城は一切合切をミツルの家に置いて出てきた。今一枚きり着ているパーカーすら目の前の男から与えられたもので、元の服は捨ててしまった。ミツルに繋がるものなど何ひとつ持ち合わせていない。当然ミツルの話だってしたことはない。
 ただ繁華街で知り合った真城を連れ帰っただけの男が、真城の身体を貪って仮宿を提供しているだけのこの男が、ミツルのことを知るはずがなかった。
「……ミツの、こと。なんで」
 しかし真城の問いに男はなんでもなにも、とそれこそ困惑したように目を丸くした。
「よく呼んでるだろう」
 あっさりと答えを返されて、今度こそ真城は言葉を失う。
「最初の夜からそうだったけど」
 男の手が伸び、涙に濡れた目元をかさついた指先が拭った。ミツルのものよりも柔らかい皮膚の感触。
 でも触れ方はミツルの方がずっと柔らかくて優しい。
「……もしかして、気付いてなかった?」
「……よんで、ない」
「呼んでるよ。終わりの方になるといつもそうだ」
「よんで、──っ」
 反駁の声を途中で遮られる。
 絡む舌に煙草の味がどんどん薄れていったことを思い出して、真城の瞳にますます涙が滲んだ。

 知らない男、知らないマンションの知らない部屋、知らない触れ方、知らない手のひら。
 それらがどんどん既知になる。
 親切ぶって真城を部屋に連れ込んだ男。妻との仲がうまく行かなくて出ていかれた。
 ナチュラルな色で統一されたこの寝室もかつては夫婦の部屋だった。仕事の多忙を理由に家族を顧みなかったことがすべての原因。若い女を買うようになったが、このように家に連れ込んだのは真城が初めて。
 出て行かれるより前からセックスレスだったらしい男は、それが想像もつかぬほどに丹念に真城の肌を触れ回る。確かめる触れ方ではない。
 暴いて塗り潰すことを望む、男の獣欲を剥き出しにした手のひらの感触。
 それをすべて受け入れて知らされてきた。

 長い口吻を終えて男が真城の頬を触れてくる。
「君みたいな、気弱で流されやすくて、何かを主張するのがうまくないような子がさ」
 指が顎の線を辿って首筋をなぞり、パーカーのチャックが下ろされる。
「こんな風に知らない男のところに転がり込んで、一人でめそめそ泣いてるわけだろ」
 パーカーの下に隠されていたかすかな膨らみにまた手のひらが這って、形を確かめるように指で脂肪をすくわれる。
 接触のひとつひとつにぞくりと肌が粟立つ。無意識に内腿を擦り寄せている。
 身体が媚びるのが分かるのが嫌だったけど、でも、今はそれ以上に。
「ひどい男だと思うけど」
「ひ、……どく、な、──あッ」
「好きなのか?」
「……っ」
 べたべたと肌を触れ回られている。薄い腹をペンだこのできた指が抱え込んで引き寄せて、背中側から抱き竦められて耳に唇を寄せられて。
「彼氏?」
「……ミツ、は」
「うん」
「ミツは、ひどくない……」
「…………」
 面食らったように黙り込んだ男に真城は俯いて、嗚咽を殺すこともできずに見えもしないはずの顔を覆った。
 万が一にでも今は覗き込まれたくない気分だった。
「ひどく、ない」
「……ひどいことされてきたんじゃないの?」
「おいだされても、ない、し」
「自分の意思で出てきた?」
 頷く。
 そうだ。自分の意思で出てきた。
 ミツルは絶対に外に出るなって何度も真城に繰り返して、できることなら誰の目にも触れさせない勢いで、こんな風に真城が他の男と交わることだって認めるはずがなくて、それを理解した上で真城はこうしている。
 真城自身の意思でこうしている。いるのだから、
「ミツは、わるくない……」
 ミツルが悪いはずがない。
 ミツルは何も悪くない。
 いつだって悪いのはミツルじゃない。
 ミツルの家族が殺された時だって、狩りに巻き込まれてハンターになってしまった時だって、碧が吸血鬼として蘇った時だって、満月の夜にD7を襲撃した時だって、
 ──本物の真城が、グロキシニアと相討ちになって死んだ時だって。
「ミツは、わるくない」
「……うん」
 気づけば男の手が真城の髪を梳いていた。その触れ方だって違う。違うけど、もう、知っているものだ。
 知っているものだけど、これを望んだことは一度もない。
「ミツは悪くない」
 望みを喉の奥に押し込めて、代わりに何度も繰り返す。
 悪くない。ミツルは何も悪くない。何も悪いことをしてこなかった。
 何も悪いことなどしてこなかったのに、ミツルが何かを奪われて苦しんでいるのだとすればそれはいつだって、
「……俺が」
「?」
「俺が、悪いから……」
 いつだって、悪いのは真城の方なのだ。
 本物の真城にせよ、今ここにいる自分、本物じゃない、偽物の真城にせよ。
 悪いのはいつだってミツルじゃない。
 『真城』の方だ。
「……悪いことしたの?」
「……してる」
 今ここに真城がいることだって、ミツルが望んだはずがない。
 真城はそれを知っている。よくよく理解している。理解した上でミツルの家を出た。一緒にいられないと思ったから。自分が一緒にいてはミツルを苦しめるだけで、それ以上にミツルと一緒にいて苦しい自分に耐えられなかったから。
 耐えなければならないはずだった。ミツルのためなら何にだって耐えなければならないし、耐えられるのだと思っていた。それでも現に今、真城はミツルのもとを離れている。
 本物なら、
 本物なら、耐えられただろうか。
「俺が──俺が、悪くて」
「うん」
「俺が悪い、ミツは悪くなくて、ひどいのは俺で」
「うん」
 相槌が耳に心地良い。
 真城が悪いのだと、それを認めてくれる男の声が、今の真城にはどうしようもなく嬉しい。
 もっと嬉しいものを全て拒んでしまったから。
「俺が、……俺が、うまくできないから」
「何を?」
「本物じゃ、ないから」
「?」
「俺が本物じゃないから、ミツにひどいこと、してて」

 本物じゃないから耐えられなくて、本物じゃないからミツルを落胆させて、本物じゃないからどうすればいいか分からなくて、
 本物じゃないから、本物みたいに扱われることを期待してしまう。
 そんなこと望んでいいはずがないのに。

「ミツは」
「……うん」
「ミツは、悪くない……」
 とめどなく涙が溢れて、顔を覆った手のひらから肘を伝い落ちて肌を濡らしていく。
 いつしか男の手のひらが脚を這い、触れられるその最奥すら今は濡れているのが性質が悪い。
 誰でもいいのだ。自分は。
 誰でもいい、誰でもよくて、本物でもないんだから、ミツがこんな自分のことで心を悩ませる必要は全くない。なのにうまく伝えられないままに逃げ出してしまった。
 悪いのは真城だった。
「ひどいのは、俺で」
「うん」
「俺、だから、……っ」
 濡れた音とともに息を呑む。
 知らなかったはずの男の指に探られて暴かれる、その感覚に背が痺れて思考が甘くぼやけていく。
 それが嫌で、それを望んでいて、だからこそ拒まなければならなかった。
「──ミツ」
 拒めないから、真城が悪い。
 こんなところで何を言ってもミツルに届くはずがないのに、言い訳のように繰り返して自己満足に浸っている真城こそが、ミツルに対してひどいことをしている。
 だから。
「ミツは、わるくない──」