誰かの腕でまどろむこと自体は、真城にとってはそう珍しいことではなかった。
抱き潰されて意識を失い、目覚めてもなお解放されずにその胸に収まっている。求めを拒めず、欲のはけ口として囲われた身体の、途方もない浅ましさをそのたび思い知っていた。
だが今は少し違う。
誰かではなくて、ミツルが真城を抱きしめている。
まどろみにうとうとと意識をただよわせながら、真城はミツルの寝顔をぼんやりと眺めていた。
散々に抱かれた身体に気怠さが残っている。今も肩に腕が回って、汗とべたついた胸に頬を預けている。ホテルのダブルベッドは広く、もっと悠々と手足を伸ばして眠れるはずなのに、結局二人、必要以上にくっついて眠っている。
そのまどろみは、やはり、違っていた。
ミツルに倣うようにその首に腕を回す。なおも密着して穏やかな熱に身を浸す。失われていたはずの温度感覚が他より早く戻りつつあるのは、真城にとって僥倖なことだった。こうしてミツルと肌を交わす機会が何よりも多いから。求め合う瞬間ばかりではなくて、こうしてただ寄り添うだけの時間こそが、真城にとってはむしろ。
ミツルの寝顔は穏やかだった。静かな寝息。規則的な心臓の鼓動。触れる場所から視界から、ミツルの健やかな生命の在り方を確認するたび、真城の胸が暖かくなる。触れられる外側からではなく、心の奥底、内側から温まって、満たされる。嬉しくなる。
嬉しいのだ。ミツルが生きていることが嬉しい。喜びを、安らぎを感じてくれていることが嬉しい。苦しみから遠く在ることが。その充実が何よりも嬉しい。それに自分が関わっていなければもっと良かった。
真城の存在によって家族を奪われ、孤独を強いられた彼を愛す疫病神が自分だった。
自分が命を救った相手なんだから、少しくらい関わっても良いだろう。かつての自分の傲慢な思考の、その愚かしさを呪わないはずはない。声をかけると表情を明るくするそのさまを、嬉しく思う理由からも目を逸らしていた、やはりどうしようもなく、愚かだった自分を。与える側の優越感がいつしか裏返り、奪った側の罪悪感に転化するまでそう時間はかからなかった。そしてそうなった頃には全てが手遅れだった。
ミツルのことが好きだった。
その髪の少し癖のついたやわらかさが。茶色がかった丸い瞳の、自分に向けられるまなざしが。真城の牙を受け入れる少し筋張った首の線が。触れてくる掌の前よりも硬くなった皮膚の感触。ひとつひとつ、触れて確かめる。そのたびに実感がこみあげる。
夜高ミツルという存在を形成するすべてが、夜高ミツルという存在を形成しているがために。真城にはそれらがどうしようもなく好ましく感じられる。ミツルという存在の一部であるからこそ、そのすべてに惹かれている。自覚している。仮にひとつふたつ、ミツルからそれらの特徴が失われることがあったとて、それが変わらずミツルの一部であるならば真城は何ひとつ問題なくその変化を受け入れるだろう。悲しむことすらできないかもしれない。
ただミツルがミツルとして、できる限りの艱難辛苦とは無縁で生きていてくれれば、それでよかった。そればかりを望んでいた。
だから彼の人生には自分というノイズがどうしても邪魔で、途方もなく悲しくなる。
──真城朔は罪人だ。
どれほどの犠牲を世界に強いたかすら、真城は正しく把握していない。モンスターが生み出す被害の規模は性質も規模も様々で、その都度被害を計上していくだけの余裕は真城にはなかった。真城がこだわって積み重ねてきたのは、ただ、自分が作り上げたモンスターから得られる力だけ。母親を蘇らせる血戒が、どれほど完成に近づいたか。それだけをかんがえて、夥しい悲劇を築きあげていった。
壊してきた。壊しすぎてきた。営みが、さいわいが、どれだけ真城は壊してきたか。自分では直接手を下さず、表ではまるで社会を守護する側のように振る舞って。時に吸血鬼と化しては人を殺し、その血を啜り、野放図に喰らい回っては腹を満たし。
あまりにも。あまりにも多くの者の命と、それらを取り巻く幸福を奪いすぎてきた。
ゆえに自分の幸福がたやすく壊されうるものだと真城は理解している。前提として、この世界に絶対はない。永遠に保たれるもののないことを、それを壊す側として、真城はよくよく承知していた。自分のような罪人であればなおのことだ。
いつかは、然るべき裁きが下されるのだろう。破滅の予感が真城には常につきまとっていたし、心のどこかでそれを望んでいるのは嘘ではない。おまえは、おまえのような極悪人は、できうる限り無残にその幸福を奪われて死ぬべきなのだ。そう囁く声がいつも消えない。消すこともできない。
それがなによりも恐ろしい。
そう、幸せなのだ。今。どうしようもなく、抗いようもないほどに、真城は幸福を感じている。ミツルに触れられることに。ミツルが隣にいて、自分に心を砕いてくれることに。
事あるごとに顔を覗きこまれる。真城本人が隠しているつもりでも目ざとく変化を悟って、だから泣いてしまったらもう駄目だ。ミツルは過剰なまでに真城を案じ、その理由を突き止めようとする。どんな些細なことでも、どれほど解決の難しいことであっても、真城を苛むすべてを取り除こうと努める。
近くで瞳が合うと、求められていることが分かる。自分の存在がミツルを満たすことができるのが真城には嬉しいのだ。ミツルの役に立てることが、望まれることが何よりも嬉しい。繋がって熱を共有することが。ミツルが自分をかき抱いて、心の底から気持ちよさそうにしかめられる表情のさまに、彼を満たしながら満たされている至福を感じられる。嫌で仕方ないこの馬鹿げた身体の性質が、ミツルに何か与えられているというだけで、真城はこれで良いのだとすら思えてしまう。
──ミツルが自分に対して欲を抱いている、という事実には、いまだに腑に落ちないところはあるが。何かの間違いであるような気がしてならない。やはりこの身体に惑わされた結果なのではないかと疑う気持ちが、証明された後でも拭いきれずにいる。
以前の自分であれば、おかしいだろ、とでも叫んでいたのではないだろうか。俺らそういうのじゃなくね、だとか。溜まりすぎて頭おかしくなった? だとか。そういう風に言った、かもしれない。今ではこの思考を動かすのにも苦労する。前はあれが当たり前だったはずなのに、ありとあらゆる当たり前を壊されてしまったから。
とにかくそれでも事実として、ミツルは真城を抱いている。半日離れてもなおその気持ちが消えずにいたあの初めての夜からこちら、ほぼ毎日のように身体を重ねてきている。求められれば求められるほどに真城はミツルを拒めないし、違う、拒もうとももはや思えないのだ。求めてしまいすらする。そうだと決めつけられてあげつらわれる身体の反応ではなく、ことばで、間違いのない真城自身の意思で、ミツルを際限なく求めてしまう。そうするとミツルが嬉しそうに求め返してくるから、間違っていないのだと馬鹿になった頭で信じ込んでしまう。間違いでないはずがないのに。
好きだと伝えられる。何度も何度でも、いい加減飽きはしないのかと疑問に思えるほどに、ミツルは真城に、そのことばを繰り返す。他愛ない会話の延長線上、真城が怯えてミツルを振り払おうとする時、熱を灯されて肌を重ねるその瞬間。ありとあらゆる場面でミツルは真城に好意を表明しては優しく真城に触れてくる。
それも嬉しいのに、やはりどこか、腑に落ちない。
彼の好意を疑うつもりはない。だから要するに、しっくり来ないのはこうなっている現実そのものの方だ。夢みたいだ、と彼の背中で漏らしたことがあったが、それともまた違う。とても現実とは思えない。今を形容するならばそういう表現になる。
好きだと繰り返し囁いて求めてくるミツルを、自分が受け入れて溺れているというこの状況に、真城は現実感を感じられずにいる。ミツルが真城に性的関心を抱いていたはずはないとよく知っているからだ。最初からそうならば、泊まり込みでミツルを鍛えたあの日々でことが起こらないはずがない。真城にはその危惧と恐怖と覚悟があったが、ミツルは素知らぬ顔でかつてと変わらない態度を真城に保ち続けた。
それが今はこの有様だ。自分の一挙一動にミツルが息を呑む瞬間がある。もたげた欲を抑えこむ時の男の表情が、ミツルの顔に浮かぶのがわかる。それが十分にできなくて手が出るときもあって、いずれも真城を愛おしむような熱っぽい視線を伴って、真城はそのまなざしにすぐに屈してしまうのだ。
そういうすべてを引っくるめて結局、今の真城朔はたまらなく幸福である、という結論に着地してしまう。
それらが、そうされることが真城にはとんでもない贅沢で、恐ろしいくらいなのに、拒めない。
幸せだから。
この幸せを、手放すことが恐ろしいから。
ミツルの隣にいることが幸せで、どれほど離れたい離れなければならないと口では泣き喚いたところで、結局自分にはもはや成し遂げられないことを日々思い知っている。馬鹿げた茶番にミツルを付き合わせて手を焼かせているのが嫌でたまらないのに、そうすることをやめられないでいる。どうせ離れられないのなら開き直ってしまえばいいのに、壊されてしまうことを知っているのだから今のうちに浸り切ってしまえばいいのに、拒んだところで何の免罪にもなりはしないのに。ミツルにはいつだって笑っていて、喜んでいてほしいのに。そうすることが真城にはできないのだ。
ミツルの。ミツルの人生に、自分がいなくてもよければいいのに。それが、本当に心からの本心で、なのにもうどうしようもなく自分と彼は癒着してしまっている。引き剥がされる時に痛むのはもはや自分だけではないのだと、真城も既に思い知っている。ミツルが傷つくことを真城はできない。苦しんでほしくない、悲しませたくない、困らせたくない。
自分の願望のかたちは最終的にミツルに集約される。自分のことはどうでもいいからと泣き叫んで、せめてミツルだけでもと免罪を乞うて。
そして同じかたちの利他の願いたちすら、自分がかつて踏みにじってきたことを、真城は改めて思い出すのだ。彼らに下される罰を真城は拒んでしまった。口を閉ざして背を向けて、知らないふりをして今も生きている。
だから真城は知っている。
真城が心のどこかで待ち侘びて、何よりも恐れる罰は、真城が傷つけ奪ってきた者からは下され得ない。真城を襲うのは第三者によって下される無慈悲で不条理な罰となる。
そしてこの幸せな日々を自ら壊すことのできない真城にふさわしい理不尽に、きっとどうしようもなくミツルは巻き込まれるのだ。
いつか来る禍災の日への恐怖を鈍らせるには、麻酔のような熱が少々足りない。このまどろみの中では十分には思考を閉ざしえない。
しかしそのためにミツルを起こすことなどできるはずもなく、真城はただ、縋るようにその胸に頬を寄せて瞼を落とした。