まどろみの中、右手が宙を掻いてさ迷う。いつも傍にあったはずの温もりを求めて。しかしどれ程探しても求めるものは見つからず、やがて腕は力なく投げ出される。マットレスがそれを受け止める音と、細いチューブで繋がれた点滴が揺れて軋みを上げる音だけが、一人きりの病室に小さく響いた。その揺れるさまも音も、ミツルは感知しない。ただうつろな瞳を虚空に向けて静かに涙を零した。
 意識が覚醒する。思い出す。思い知らされる。そうだ。死んだのだ。真城は。他の誰よりも求め続けた、ミツルが愛した人は。

 真城朔はもうこの世界のどこにも存在しない。

 そして真城朔がいなくなった世界で、ミツルは一人ぼっちで朝を迎えている。
 目覚めたくなんかなかった。眠っている間にこの命が尽きてしまえばいいのに。何度そう思ったことか知れない。『死なないで』、そう望まれたことを覚えていればこそ。自ら死を選ぶことはできない、ならば死の方から迎えに来てはくれないものかと願った。何度も、何度も何度も。
 しかしそれが叶わないこともまた、よくよく分かっていた。手足に追った傷は決して軽いものとは言えないが、治療を受けてなお命を奪う程のものではない。あの場で処置が遅ければ、或いは死ねていたのかもしれないが。
 現実としてそうはなっておらず、ミツルは生きている──生きてしまっている。真城を一人で死なせて、こうしてのうのうと新しい日を迎えている。
 身体が生きるために起こす生理現象の全てが、ひどく煩わしい。喉が乾くこと。腹が減ること。眠ること。規則正しく打ち続ける心臓の鼓動や、呼吸さえも全て。生きる意味を、理由を失いながらも、ミツルの身体は勝手に生命活動を続けている。いやだ。どうして人は悲しみで死んでしまえないのだろうか。
「…………真城」
 殆ど吐息のような掠れた声で名前を呼ぶ。真城、ましろ、と何度も繰り返しその音をなぞる。ほんの少し前までは呼ぶだけで幸福さえ感じられた、大好きな人の名前。しかし今、それに応える声はない。覗き込んでこちらの表情を窺う仕草も、寄り添うぬくもりも、何もない。
 ミツルの指を受け入れるやわらかで癖のない黒髪。ミツルを求めてしがみつく仕草。ミツルだけに見せる、ふわりとほころぶような笑顔。ミツ、と繰り返し名前を呼ぶ唇。絶えず寄り添って分かち合ったぬくもり。求める何もかもが、もはやミツルには決して手の届かない所にある。
 ミツルの手に残されたものはたった一つ。少しの飾り気もない、冷たく硬い鍵。それだけ。投げ出したのとは反対の掌の中に、それはある。握りしめたまま眠っていたために硬直した指をのろのろと開く。開かれた手の上に鍵は確かに存在していて、周囲の肉にはくっきりとその痕がついていた。
 真城の遺した物が消えずにそこにあることに安堵する。だがそれも一瞬のことで。形見はしょせん形見でしかない。応えてくれることも、笑ってくれることもなく。ただ、それらを思い出すよすがにしかならない。
 嗚咽すら漏らさず、ただただ涙ばかりが頬を伝っては落ちて、枕を濡らしていた。その表情には深い悲しみと絶望の色だけがある。それから、どうしようもない寂しさが。室内は空調が効いて十分に暖かいはずなのに、凍えるように寒い気がした。耐えるように自分の身体を抱く。
 寂しい、冷たい、苦しい。つらい。
 寂しい。

 毎日でも来ると宣言したとおり、ゆかりは何度も病室を訪れた。ミツルのうわ言めいた話に根気強く付き合い、優しい言葉をかけてくれた。彩花が来たときには、真城との思い出を聞かせてもらった。ミツルを見舞う誰もが優しかった。
 だからこそ、それをきちんと受け止められないことが申し訳なかった。感謝の言葉の裏で、ここにいて話をしている相手が真城ならばどれほど良かったことかと、そう思うことをやめられなかった。みんながミツルを案じて心を砕いてくれるのに、真城じゃないならなんの意味もないと思ってしまう。そんな自分が嫌でたまらない。
 カーテンが引かれたままの病室に朝日が差し込むことはなく、ミツルの心情を反映するようにどこまでも薄暗かった。

 真城をD7から連れ出してから一年の間、片時も離れず──誇張なくそう形容できるほどに、ミツルと真城は寄り添い合って同じ時間を過ごした。もはや学校にもバイトにも行く必要がないものだから、二人を阻むものは何もなかった。
 目が覚めて、真っ先に視界に映るのは相手の顔。気の抜けた声でおはようの挨拶を交わし、ベッドを出て同じ食事をとる。それからどこかへ出かけるにしろ、部屋で過ごすにしろ、共にあるのには変わりない。共にあることこそが互いの望みで、だから相手と一緒にできないことに対しては二人とも興味を示さなかった。一人では、何をしても仕方がない。一緒であることにこそ意味があった。
 不意に目が合えば、どちらからともなく名前を呼ぶ。それに応えて呼び返せば、やはりどちらからともなく口づけて。そうなったらもう互いにタガが外れてしまう。ミツルは真城を、真城はミツルを求めて。バカみたいに名前を呼び合って、好き、と言葉を交わして。境目が溶けて二人で一つの生き物になることを望むように、一分の隙間もない程に抱きしめて。
 何度も何度も飽くことなく、むしろ数を重ねるほどになお強く、相手を求めて身体を繋げた。その行為が一度や二度で止まることはごく稀で、互いに精根尽き果て、どろどろになった身体を清めることもできないまま眠りにつくことさえ珍しくなかった。そうでない時も、抱き合って同じベッドで眠ることは変わらない。そしてまた新しい一日を二人で迎える。
 そんな毎日を、この一年の間送ってきた。間違いなく、ミツルの人生で一番幸せな日々だった。これ以上ないというほどに満ち足りていた。
 世間一般の恋人同士なら、どちらかが息苦しさを感じて一人の時間を求めてもおかしくなかったかもしれない。しかしこの二人に限ってはそんなことはただの一度も起こりえなかった。どちらも寂しがりで、孤独に過ごすことを嫌った。端から見れば異様で過剰にも思える程に近い距離感こそが、二人には必要で適切なものだった。
 何年、何十年先も、そうして生きていくつもりだった。何の根拠もなく、そうできると信じていた。障害は多いけれど、それでも二人ならなんとかしていけると思っていた。──バカだ。どうしようもなく愚かで幼稚な万能感。永遠に続くものなど存在しないのに。日常は簡単に壊されうるものだと知っていたはずなのに。狩りの世界に身を置き続けるならば尚の事。

 あの禍災の日を、真城を失った狩りの日を後悔しない時はなかった。
 何度も、何度も何度も繰り返し自分に問いかける。あの日の判断に誤りはなかったか。もっと注意深く行動していればよかったのではないか。そもそも、自分がもっと強ければ。いっそ真城を連れて逃げてしまっていれば。
 自問自答をいくら繰り返しても、答えなど見つかりはしない。仮にそんなものがあったところで、あの時それを見いだせずに真城を失った現実は今更変わらない。自分の愚かさと無力を確かめるだけの、無益で無意味な行いだ。分かっている。分かっている。分かっているのに、そうせずにはいられなかった。
 この一年間でミツルが見せた前向きさも、楽観性も強さも、真城が隣にいればこそで。その全てはあの日に真城と一緒に失われてしまった。今はもう、何一つ残っていない。後悔。無念。自責。ただそればかりがある。ぐるぐると頭の中を巡って、そうして堂々巡りの行き着く先はいつも同じだ。──あの時、一緒に死んでしまえばよかった。
 それが真城の思いを無下にすることだと分かっている。こんな風に考えることさえ、真城を冒涜している。
 真城の望みを叶えるためにミツルの存在がある。だから生きなければ。何度も真城に救われた、望まれた命なのだから。死にたいなんて思ってはいけない。そんなことは許されない。生きて、生き続けて──

 その先に、何がある?

 真城のために捧げたはずの人生は、目的を見失って宙ぶらりんになってしまった。
 狩りを、続ける。せめてそれを支えに立ち上がろうと決めた。真城に生かされた命で、教わってきたことで誰かを助けられたら、それが真城のためになるような気がした。生きる理由にできるように思えた。
 しかし、そうしたところで何も真城に届きはしないことも、ミツルは分かっていた。祈りも願いも、死者には決して届かない。だからと言って撤回する気はないのだが、しかし気力の方もやはり一向に湧いてこなかった。傷の治りは相変わらず遅々としたもので、点滴すら未だに取れていない。食事を取っても吐き戻してしまうためだ。
 このままでは次の満月には間に合わないだろうな、とぼんやりと思う。怪我が治って、狩りに出るのつもりがあるなら連絡しろ、と大亮からは言われている。つもりはあっても怪我の方が芳しくないから返事は保留したままになっていたが、やはり断りの連絡を入れるべきだろう。退院だけならできているかもしれないが、完治しないまま無理やり狩りに赴いても足を引っ張るだけだ。そうやってもし誰かを死なせてしまえば、あるいは自分が死んでしまったら。それこそ真城に顔向けができなくなる。
 真城のためになると思えることをする。そうでないことはしない。真城を喜ばせ、幸せにして、真城を傷つける全てから真城を守る。結局は果たせなかったことだが、それでもミツルはこの一年間そうあろうとしてきた。そうすることこそがミツルの幸福だった。その幸福を失ってなお、生き方ばかりが変えられそうにない。変えたいとも思わない。

 夜高ミツルは、真城朔ただ一人のものだ。
 ミツの人生を自分がめちゃくちゃにしたと、真城は何度も泣いていた。ミツル自身もそれを否定はしなかった。ミツルの人生は真城朔に壊され、真城朔のために作り変えられた。それで構わないと思っていたから。
 今も、そう思っている。真城と過ごした『いつも』を失っても、なお。