「出ないように努力しろ!」
「わははは」

 扉が閉まる音のあと、少し置いて玄関から遠ざかっていく足音が小さく聞こえた。それを聞きながら、結局自分で流しに重ねた皿を洗い始める。真夏の熱気で温められたの水道水は、夜になり多少気温が下がってもなおぬるい。それでも、恥ずかしいことを言ったり支離滅裂な話をしたりで体温の上がった手に、流水の感覚は心地よかった。
皿を洗えだとかなんだとか、そんなのは照れ隠しのようなもので。実際のところ世話になっているのはこっちの方なんだから、そんなのは自分でやって構わなかった。

 落ち着いて先程の会話を思い返すと結局また恥ずかしさが込み上げてきて、いつもより無駄に丁寧に、時間をかけて皿を洗っていく。一枚洗い終われば次を手に取って、またわしゃわしゃとスポンジで洗う。真城が出ていった部屋は静かで、ただ泡立ったスポンジが皿を擦る音と、シンクを叩く水の音、そしてその合間に食器がぶつかる硬い音が狭い部屋に響いた。
 ……そうしていると、さっきついでに訊いておけばよかったなんてことが今更思い浮かんだりして。自分のテンポの遅さに小さく溜息をつく。……めぐるの嘲りが聞こえた気がしたが、そちらは丁寧に頭の片隅に追いやった。
 遠慮があったのは、真城じゃなくて俺の方だと。そんなことにも指摘されるまで気づかなかった。あるいは気づかないふりをしていたのかもしれない。訊けていないこと、言えていない言葉。それも、これから少しずつ話していけたらいいと思った。遠慮なんかしなくていいと真城は言っていたのだから。

 これから。
 明日がこれまでと同じようにやって来る保証なんてどこにもないってことを、どうして忘れていたんだろうか。真城と共に過ごすことに、狩人としての生活に、いつの間にか慣れていた。根拠もなく、それが続くような気がしてしまった。日常なんて簡単に、何の前触れもなく手からこぼれ落ちてしまうことを、身を以て知っていたはずなのに。

 皿を洗い終えて向かったいつもの公園に、真城の姿はなかった。

 あまりにも気の抜けた会話といつも通りの笑い声。それらを最後に、真城朔は俺たちの前から姿を消した。5月の時と違うのは、今度は手がかりも足跡も何一つ残されなかったこと。そして、糸賀さんの友人で真城の幼馴染でもある、皆川彩花が同時にいなくなったこと。そして二人が、まるで始めから存在していなかったかのように、この街で暮らしていた記録や痕跡ごと消失してしまっていたことだ。
 あの時もっとちゃんと探していれば、乾咲さんにすぐに連絡を取っていれば、何か手がかりくらいは見つけられたのではないか。もっと話をしていれば、こうなる予兆のようなものに気づけていたのではないか。しばらくは、そんな後悔ばかりがぐるぐると頭の中を駆け巡った。しかし後悔なんてしたところで現状は変わらないし、そもそものんびり物思いに耽っている余裕自体がなくなってきていた。モンスターは相変わらず……どころか徐々にその出現の頻度を増していて、誰よりも精力的に狩りを行っていた真城の不在は、狩りをより過酷なものにした。

 真城が欠けた日々の中でも、狩りは続いていく。そんな中、久しぶりに深手を負った。目の前に対峙している吸血鬼本体に気を取られ、死角から放たれた血の槍に直前まで気がつけなかったのだ。そんな時に蹴飛ばして槍から逃してくれたやつはもういなくて、そのまま深々と脇腹を抉られた。
 5月のあの事件以来、俺が大きな怪我も負わずに狩りを生き残ってこられたのは真城がいたからこそなんだと、分かってはいたけどこうなって改めて思い知らされた。真城のこととは関係なくハンターになるつもりだと、かつて俺はそう啖呵を切った。だけど、真城が隣にいなければ、ただの無知で無力で無謀な高校生の俺は一月と経たずに夜の街で野垂れ死んでいただろう。
 真城のために戦っていたわけではない。忽亡さんに語ったそれは紛れもなく本心だった。だからといって、戦う理由にあいつが全く含まれていなかった訳では勿論ない。でも、助けになれればなんていうのはやっぱり思い上がりで、何度も言われたように真城にとっては一人で戦う方がよほど気楽だったのかもしれない。ほんの少し前まで一般人だった俺を死の危険から遠ざけながら戦うことは、どれほどの負担になっていただろう。それを確かめる術は、今はない。

 真城の不在は、自分が今までどれだけあいつに頼り、守られていたかを浮き彫りにした。思えば最初から、真城には助けられてばかりだった気がする。高校に入学して、何も知らずにただのクラスメイトとして出会った頃から。
 八崎高校に入学して、いくらも経たない頃。何故かクラスメイト達の中で、俺が家族を亡くしているという話が広まってしまった。どこが発信源だったのかは今となっては分からない。同じ中学だったやつが何人かいたから、その中の誰かが言ったんだろうか。
 世話になっていた親戚の家から離れすぎないことが一人暮らしの条件だったのだが、やっぱり無理を言ってでももっと遠くにいけば良かったとその時心底思った。『かわいそうなやつ』として扱われるのはとても居心地が悪くて、クラスメイトが見せる同情にどういう態度を返したらいいか分からなかった。一人のうのうと生き残った俺なんかより、殺された家族の方がよっぽどかわいそうだ。
 そんな中で、唯一普通に俺に接してきたのが真城だった。当時からサボりが多かった真城は早々にクラスで浮いた人間になっていて、だから最初は噂なんて知らないのだと思った。真城に言わせればあいつが俺に近づいたのは同情からだったらしいから、その表し方がクラスメイト達とは違っただけなのかもしれないけど。真意がどうだったのかなんて俺には分からない。だけどそうして普通に扱ってもらえることが、俺にはこの上なくありがたいことだった。あいつといる時は、「家族が不慮の死に見舞われたかわいそうな子供」ではなく、ただのバイトに励む高校生でいられた。

 真城が何を思って俺に近づき、どんな感情で一緒に過ごしてきたのか、いくら考えてみたところで結局ちっとも分からない。推測することはできるけど、本人に確かめられない以上はただの妄想でしかない。ただ、真城にどういう意図があれ、俺があいつに何度も何度も助けられてきたことは、今更揺るがない事実だった。

「本当にその友達が悪かったら、どうしますか?」
 不意に、皆川さんの言葉を思い出す。あの時すぐには答えられなかった質問。5年前、俺の家族が殺された日に何が起こったのか、俺は自分がが目にした以上のことを殆ど知らない。真城に聞けばもっと詳しく得られたはずの、その情報を知らないのは──それを聞くのが怖かったからだ。話を聞いて、もしかしたら自分の答えが変わってしまうかもしれないことが。今度こそ今までのままではいられなくなるかもしれないことが。それが怖かった。

 だけど、今ならもっとはっきり、あの質問に応えることができる。
「そんなの、聞いてみないと分かんないよ」
「分かんないけど、でも。どうなっても折り合いはつけていける」

 もしかしたら話を聞いて、真城を許せない気持ちが生まれるかもしれない。今までと同じような関係ではいられなくなるかもしれない。真城のせいで、家族が死んだ。それはなかったことにできないし、過去のことは関係ないと言い切ることも、俺にはできそうもない。だけどそれと同じくらい、いや、それ以上に、過去のことを理由に今の真城を切り捨てることだって俺にはできない。紅谷のことだって。グラジオラスのしたこと、しようとしたことは許せない。だけど、勝手かもしれないけど、俺は今でも紅谷は良いやつで、友達だと思ってるんだ。
 あの日の真実がどうであれ。真城と過ごした日々も、助けられたことも、俺があいつと友達でいたい気持ちも、嘘にはならない。嘘にはしない。それだけが今、確かに言える『絶対』だった。

 月が昇り、また狩りの時がやってくる。竹刀袋を担いで、俺は夜の街に駆け出す。その闇の中に真城はいないけど、真城と交わした約束は今も続いている。
 死なないこと、生き残ること。
 自分の命を最優先に……は、もしかしたらできていないかもしれない。けれど、それは以前のような投げやりな気持ちからではなくて、誰一人欠けることなく、全員で生きて朝を迎えたいからだ。そしてその全員の中には、ちゃんと自分も含めている。真城だって、それを否定したりはしないだろう。
 夜毎にモンスターは現れ続け、一方で消えた二人の行方については相変わらず手がかりの一つも見つからない。それでも俺は、真城を探すことを諦めてはいなかった。必ず真城を見つけ出す。そして今度こそ、引かれようが笑われようが話したいことを全部伝えるんだ。


 ……もう一つの『約束』の方は、今は杞憂であることを願うばかりだった。