吐き出した煙が立ち昇り、風に巻かれて拡散していくのをただぼんやりと眺めていた。視界の端では、後輩たちが狩りの後始末をしているのが見える。今回はかつての自分のように年若い狩人がいて始めはどうなることかと思ったが、結果として大した被害は出さずに片付けることができた。重畳なことだ。どこか他人事のように思った。
いつの間にか、こうして始末を人任せにして自分はただ突っ立っていても許されるようなポジションになってしまっている。八崎市で狩りをしていた頃はいつもミツルが一番の後輩だったから、周囲から熟練の狩人のように扱われるのは今も慣れない。自分には過ぎた評価だとさえ思う。時折尊敬の眼差しなんかで見られると、耐え難い気持ちになる。
頼むから自分に憧れたりなんてしないでほしい。一人のために他の大勢を見捨てようとした、そうしてまでいちばん大事な人を守れなかった狩人なんかに。
再度煙を吸い込んで、吐き出す。一仕事終えた後だからといって、特段美味く感じたりはしない。むしろ何度吸っても不味いとさえ思う。それでも続けているのは、真城がかつて持っていたものと同じ銘柄だからという理由でしかない。
空いている手をコートのポケットに突っ込み、指先に触れた冷たい金属を握り込む。何の変哲もないただの鍵であるそれは、花となって散っていった真城が残した唯一の形見だった。あの頃の真城がきっとそうしていたのと同じように、ミツルはそれをいつでも肌身離さず持ち歩いている。
気がつけば、真城と過ごした全ての時間よりも、その幸福を失ってからの時間の方が長くなりつつある。
八崎市も離れてから随分と久しい。かつての仲間たちとは今でも連絡こそ取り合ってはいるものの、顔を合わせることはすっかりなくなっている。正確に言えば、努めて会わないようにしてきた。会えば頼って、甘えてしまうのが分かりきっていたから。あの人達には、あの人達の幸せがある。そこに自分が水を差したくはなかった。
ミツルが沈んでいるのを見れば、彼らはどうしても真城を死なせたことを、ミツルに失わせたことを思い出す。あの日のことを後悔するだろう。ミツルを心の底から心配して気にかけてくれる、優しさを持った人たち。だから、好きだった。だからこそ離れなければいけなかった。これ以上気を遣わせたくはなかった。
何より、彼らが幸せに暮らしていることを妬まないでいられる自信がなかった。彼らが生きていて、失わずに済んで良かったと思うのと同じ心の内で、どうして自分たちだけ、と思わずにいられなかった。スマホの画面上の文字だけのやりとりは、自分を取り繕うには好都合だった。対面ならきっと自分の醜い感情を誤魔化しきれていなかっただろう。或いは彼らが気づかなかったフリをしてくれているだけで、本当は文章にさえそれが滲んでいるのかもしれないが。
唯一フランとだけは、そんな文章のやり取りさえ途絶えたままになっている。あの禍災の日以来、彼と言葉を交わす機会はついぞ得られていない。ミツルよりも先に八崎市から去ってしまった彼を見かけたという話は誰からも聞いていない。
気にしないでほしいと、せめて一言だけでもあの日の内に伝えられれば良かった。今でも時折思う。フランを責める気はない。責められる筈がなかった。フランが真城碧の姿を息子である真城に重ねていることは知っていた。そして真城を生かすためにフランの愛する人がこの世に蘇る道を閉ざしたのは、他ならぬミツルなのだから。
一番大切な人を失う痛みを身を以て味わっているミツルが、そんな心の傷跡に付け入られたことをどうして責められようか。彼の心根の美しさを知っているから尚の事。どうか罪悪感などに縛られることなく生きていてほしいと、無責任で無力な祈りを捧げることしかできなかった。
そうして、真城のいなくなった世界をミツルは一人で生きている。真城といた幸福な日々の記憶が、少しずつ遠ざかっていくことを恐れながら。
一緒に過ごした日々の中の真城のどんな些細な表情も、仕草も、言葉も、一つ残らず覚えていたいのに、時が経てば経つほどにそれが薄れていくことをミツルは自覚していた。掌に掬った砂粒がこぼれ落ちていくように、日々取りこぼしていくものがあることに怯えていた。
これ以上失う前に、真城の思い出を少しでも多く抱えていられる内に死んでしまおうかと、真剣に考えたことさえある。だけど真城に死なないでほしいと願われたことを思って、結局実行には至れなかった。別れの時の真城の言葉は、ほとんど呪いとも言えるような力を持って今もミツルを生かし続けている。
少しでも多くを自分の元に留めていたくて、縋るように手を出したのが煙草だった。真城の記憶を確かめるよすがになるものが、一つでも多く欲しかった。ミツルと過ごすようになってからの真城は煙草を吸うことはなかったけど、それでも煙草を咥える様や纏った香りは印象深く覚えている。記憶の中のそれと同じ香りを自身の身に纏っていると、ほんの少しだけ気が休まった。
真城が生きていれば、決していい顔はしないだろう。泣きさえするかもしれない。真城はミツルが健康から遠ざかることをいつもひどく嫌がっていたから。狩りで負う傷はもちろんのこと、病気から果ては睡眠不足や空腹まで。どんな些細な瑕疵もなく、常にミツルが充たされていることを、真城は望んでいたように思う。自分が負う傷には全く無頓着なくせに。
そうやっていつでも真城が気にかけてくれたから、心配をさせないようにとかつてのミツルは自身を大切に扱ってきた。今はもう、そうする必要はない。気力もなかった。昼過ぎに目を覚まして、隣に愛する人のぬくもりがないことの強烈な寂しさに涙を溢す。涙が収まっても、何をするでもなくただ漫然と一人の時間をやり過ごす。狩人の付き合いごとがあれば顔を出すが、それがなければ日が落ちるまでそのままでいることも珍しくなかった。そうして月が出る頃に適当に食事を摂って、服の下にナイフを潜ませて夜の街へと出かけていく。
ミツルがこんな生活を送ることを真城は間違いなく望まない。狩りを続けることさえ元々真城の望みに背くことだ。分かっている。分かっているのだ。申し訳ないと思う。こんな生活をしていていい筈はない。
だけど、真城はもういない。ミツルの不精を、不摂生を悲しそうに指摘してくることはない。咎めるものといえば、ここ数年でますます喫煙者への風当たりが強くなった世間くらいのものか。だからどうということもないが。真城の手を取ると決めたあの日から、ミツルにとって世間一般という観念は極めて位置の低い所に置かれている。脚に引っかかれば蹴飛ばしてしまえる程度に。そうでなければ、真城を罰から遠ざけて共に生きることなんてできなかった。
「……夜高さん、灰」
不意に声をかけられて、出口のない思考が中断される。手に持ったままの煙草からは気づけば今にも灰が落ちそうになっていた。懐から携帯灰皿を取り出して、灰を落とす。それから改めて、声をかけてきた相手──例の年若い狩人に視線を移した。後始末が終わったと言うので、そうかとだけ返事を投げて煙草を咥えなおす。未成年の前だからと言って、火を消すことはない。むしろ煙を厭って自分に話しかけないでくれるなら、その方が都合がいいくらいだから。
だけど残念ながら、彼は期待したように眉を顰めて離れていってくれたりはしなかった。まだ何か話があるのかと目線で問えば、夜高さんのお陰で助かりましたとか、狩りも上手くいってだとか。云々。そんな事をミツルに向かって語り始める。
結局の所、夜高ミツルは自分自身のために何かを望むことがあまり上手くない。誰かのために行動してそれが実を結ぶことで、初めて自分も満たされる。それはミツル自身にも自覚がある、今更変えがたい本人の性質だ。だけどその『誰か』は目の前の相手ではなく、真城朔でしかあり得ない。あの時から、今に至っても。
それを証明するように、こうやってどんなに感謝の言葉や憧れの眼差しを向けられても、ミツルの心は少しも温まらなかった。確かにミツルは彼を窮地から助けはしたし、そうしなければ彼は今ここに自分の足で立ててはいなかったはずだ。
だけどどこまで行っても、ミツルにとって狩りは真城のためのものでしかない。真城が続けたがっていたから。人が死ぬと真城が悲しむから。それは信仰にも近い、強固な思い。かと言ってそれを説明する気にはなれなかった。理解してもらえるとも、そうしてもらう必要があるとも思えない。
だから返事の代わりに、溜めた煙を吹き付けて会話を中断させる。抗議の言葉なんて知ったことじゃなかった。嫌うなら嫌ってくれて結構だ。
だって真城がいないから。もう何もいらない。